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タグ:訃報

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 今日は仙台市フェンシング選手権二日目。男子サーブル・女子エペ。俺は運営に専念。結果はこちらから。


 それはそれとして、それ以上のビッグニュース。
 まさか、二日続けて訃報が記事になるとは。

 元プロ野球選手の野村克也さんが亡くなりました。84歳でした。

 警視庁などによりますと、11日未明、東京・世田谷区の野村さんの自宅から119番通報がありました。家政婦が浴槽の中でぐったりしている野村さんを見つけたということです。野村さんは病院に搬送され、その後、死亡が確認されたということです。84歳でした。野村さんは1954年にテスト生として南海ホークスに入団し、3年目からレギュラーに定着すると、現役27年間にわたって球界を代表する捕手として活躍しました。歴代2位の通算657本塁打、戦後初の三冠王などその強打で数々の記録を打ち立て、不動の正捕手として南海の黄金時代を支えました。平成2年にヤクルトの監督に就任し、「ID野球」などデータを駆使した戦術を用いてチームを3回の日本一に導くなど手腕を発揮しました。先月に行われた金田正一さんをしのぶ会にも出席していました。(テレビ朝日)
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 夏季五輪の開催地に毎回、足を運び、「オリンピックおじさん」として知られる山田直稔(なおとし)さんが9日、心不全のため死去した。92歳だった。葬儀は親族のみで行い、お別れの会を4月16日午後2時から東京都江東区木場1の4の3の東京木場ホテルで開く。喪主は妻倫栄さん。
 富山県出身。都内でワイヤロープ販売会社やホテル、不動産業を手がける傍ら、1964年の東京大会以来、すべての夏季五輪の開催地を訪れ、日の丸の扇子を振り、声援を送ってきた。長嶋茂雄氏やマリナーズのイチローをはじめ各界に広い交流を持ち、大相撲ファンとしても知られていた。(朝日)
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サッカー に参加中!
 昨日藤川のことについて記事で触れたら、今日になって。。。

 かつてヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)でGKとして活躍した藤川孝幸氏が、15日に逝去した。56歳だった。同氏が代表取締役社長を務めていた北海道十勝スカイアースがクラブ公式HPで20日に発表している。
 藤川氏の意志により、葬儀は近親者のみで執り行われたという。後日、「お別れの会」が開かれる予定だ。
 藤川氏は1962年10月10日生まれ。神奈川県川崎市出身で、現役時代は読売クラブ、V川崎でプレーした。引退後はヴィッセル神戸やベガルタ仙台、セレッソ大阪でコーチを務めた。今年4月には末期の胃がんを患っていることを公表。自身のツイッターに「必ず癌を完治させまして、完全復活して参ります!必ず奇跡を起こします!皆さん信じて下さい!」などと綴っていたが、その願いは叶わなかった。(サッカーキング)
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科学ニュース に参加中!
西澤潤一さん死去 東北大元総長 ミスター半導体 92歳

 半導体の世界的権威で、文化勲章、米国電気電子学会(IEEE)エジソンメダルなどを受賞した元東北大総長の西澤潤一(にしざわ・じゅんいち)氏が21日午前5時14分、仙台市内で死去した。92歳。仙台市出身。葬儀は近親者で行った。お別れの会を後日開催する予定。
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プロレス に参加中!
「黄金の左」と呼ばれた型破りな元横綱が逝った。第54代横綱でプロレスラーにもなった輪島大士さん(本名輪島博)が8日午後8時、東京・世田谷区の自宅で亡くなった。70歳。死因は下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱だった。日大からプロ入りして学生出身では初の横綱に昇進し、左下手投げを得意に歴代7位の14度優勝。年寄名跡を借金の担保にして廃業後、全日本のプロレスラーでも活躍した。土俵の内外で自由奔放な個性的な横綱だった。葬儀・告別式は未定で、喪主は妻の留美(るみ)さんが務める。
輪島さんは4年前に引っ越した世田谷区の自宅で亡くなった。近所の住民によると、前日深夜に自宅へ救急車、パトカー、消防車が相次いで到着したという。以前は1人でよく散歩し、顔を合わすとしゃべる代わりに肩をたたいたり、手をたたいて、気さくにあいさつされたそうだ。1年前から散歩に出なくなったが、3日前にはつえをついてデイサービスの車に乗る姿を見たという。
13年に咽頭がんの手術を受けた後は声が出ないこともあり、公の場に出ることは減った。遠縁の輝が所属する高田川部屋の稽古を定期的に訪れていたが、今年はなし。そのほかは、日大の後輩である境川親方(元小結両国)の弟子の挙式に出席する程度。角界だけでなくプロレス、日大などの関係者とも疎遠となり、一時代を築いた横綱はひっそりとこの世を去った。
幕下での初土俵には日大応援団まで駆けつけた。「蔵前の星」と期待されるも、たたき上げから「学生さん」と見下された。大成しないと言われた学生相撲から、初めてで唯一の横綱昇進でジンクスを打破した。
得意は左四つからの下手投げ。右の絞りが強かった。これも大成しないと言われたが、角界では異端のランニングも重視し、安定した下半身を作った。大型化が始まった時代で昇進時は120キロ。下半身の瞬発力に天性のタイミングで、このジンクスも打破した。
北の湖とは44度対戦した。74年名古屋場所で逆転優勝したが、北の湖も横綱に昇進した。ここから「輪湖時代」と呼ばれて毎場所賜杯を争った。75年に腰痛などで3場所連続休場し、気分一新に締め込みを金色に替えた。カラー化時代の先駆けで「黄金の左」が代名詞に。レスラー時代も同系色の黄色いパンツがトレードマークだった。
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